「なんでトルコが好きなんですか?」
この活動を初めてから何度この質問を受けただろう。不思議なくらい質問された。最初は、なぜそんなことを聞かれるのか分からなくて「高校の世界史がきっかけで…」「トルコ人が好きで…」「元々オスマン帝国史専攻で…」しどろもどろ理由を考えて伝えていた。
確かにそれはきっかけではあるんだけど、そうじゃない。ああ、なんて上手く説明できないんだろう、何かしっくりこないなぁこの理由…。と最初は身もだえ身もだえしていた。が、次第に説明が上手になっていった。「世界史のオスマン帝国皇帝の肖像画に一目ぼれしたんです」「そうなんだ、めっちゃおもしろいね!」「初めて行ったトルコが丁度東日本大震災の時で」「ほんまに?それって運命的だね」
ああ、こう話したら反応がいいんだな。この説明だと分かりにくそうだな。これだと会話に広がりが出るな。何回も何回も説明するうちに打算的になっていった。分かりやすく自己紹介をするというのは、一種のツールであり武器でもあるからそれが間違っているとは思っていない。ただ心の隅っこにいつももう一人の自分がいてそれに突っ込みを入れていくのだ。「世界史のオスマン帝国皇帝の肖像画に一目ぼれしたんです」「オスマン帝国と今のトルコはイコールじゃないよね」「初めて行ったトルコが丁度東日本大震災の時で」「その後はそんな運命なんて感じなかったけど」言葉ってなんて難しいんだろうと思った。嘘じゃない、嘘じゃないけど本当でもない。脳みそをかっぴろげて自分の「好き」というよく分からない感情をまるごと相手にどどーんとぶつけれたらどんなに楽か。
元から自分の好きなものは少人数で楽しみたい性分だった。小学生の時からいわゆるオタクだった私は、オタクだけで固まった閉鎖的なコミュニティの居心地の良さを知っていた。「この趣味はマジョリティには理解されないよね、でも理解できる私たちだけで楽しめたらそれで幸せだよね」根底にあるのはそんなスタンスだったと思う。「ああこれめっちゃ好き…好き…」「分かる…禿同…」特に説明しなくても「好き」という言葉だけで繋がる小さなコミュニティ。好きは押し売りしないし押し売りされたくない。そういうの迷惑なんです。うん、それでいいと思ってたし、それで良かった。
でも、大人になって学生でもなくなって、私の好きなトルコという国とこれから関わっていきたいと思った時に初めて、そう生まれて初めて「相手に興味を持ってもらうために」自分の好きを表現しなければならなくなった。恥ずかしい話25年以上生きてきて初めてだったんです。自分の好きを相手に伝えるために表現することなんて。そしてそれがどんなに難しいことかを知った。ぶっちゃけの話トルコに興味のある人なんて本当に一握りだ。まだ海外旅行好きな人とかは良い。そういう人は興味を持ってくれる可能性も高い。しかし海外にも興味がなくましてやトルコ、はてどこにある?という人の如何に多いことか。勿論それが悪いことでもなんでもない。私だって興味の無いものなんて山ほどある。だからこそ自分の興味の無いものに興味を持つことの難しさが理解できた。興味の無いものを押し売りされてもなぁ…迷惑だよなぁ。このご時世ありとあらゆる情報がネットで錯綜し、興味のあるものだけを選択して生きていける社会だ。「私なんかが」好きなものを相手に「押しつける」なんて「ただのエゴ」じゃないのか、その意味・意義はどこにある?そんなことばかり考えてしまう。私がやる意味を考える、考える。「怖い国」と誤解されがちなトルコ・中東諸国のイメージを変えたい。そうして出てきた想い。でもそれって後付けじゃない?とにかくトルコが好き、関わりたい。最初はそんな説明できない感情だけだった。それになにか後付けする。「社会的意義がある」「私がやる意味がある」「誰かの役に立つ」そんな理由。そんな理由が必要だ。だからこの理由にしよう。そんな風に決めてない?自問自答する。
ぶっちゃけの話、答えは出ないのだ。後付けのように決めたように思える想いも嘘じゃないのもほんと。これまで幾度となく他人にした「好き」の説明だって嘘じゃない。ただただ、自分のどろどろした感情や気持ちの渦から限りなくぴったりした言葉を捜し出そうとしている。脳みそをぐるぐるかき混ぜてああでもない、こうでもないと試行錯誤している。
理由の言えない好きの正体を知りたい。
自分の感情だけど、だからこそ、分からないから知りたい。
ああそうなのかと思う。この自分の「好き」を知りたい、表現したいというこの気持ち。
これこそが原動力だ。別に「好き」の理由に社会的意義がなくたって、完璧に説明できなくたっていいんだ。でもそれを「なぜ好きか」自分に問いかけること、知りたいと思うこと。なんとか言葉にしてみること。その過程を丁寧に踏んでいくこと。それが大事なんだ。そうして「自分の好き」と格闘している内に見えてくるものがきっとある筈だ。意味なんて意義なんてきっと後からついてくる。
「好き」を完璧に言語化できたらおしまいだ。そこで満足してしまって進めない気がするから。
「ああ、今回は上手く説明できた気がする…!」「違うんだよなぁ、こうじゃない」100%の表現はきっとこれからも出来ないけれど、自分の想いを伝えるために今日も私は足掻いていく。